湘南でいい鮨を食べ、エレベーターの鈍い灯りに運ばれてホテルに戻った。
「少し俺の部屋で雑談でもしようか」と彼が言う。僕は「はい」とだけ答えた。
夜は深い。コーヒーの代わりに冷たい水のグラス——その縁を指でなぞりながら、彼はぽつりと話しはじめた。
「人は“成功体験”で、まちがえる。」
なるほど、と僕は思います。たしかに成功は、背中を押してくれるけれど、ときどき妙な方向にも押しやってくる。
ウィンカーを出さない99回の平穏
たとえば車の左折。教科書的には、ウィンカー→ミラー→ハンドル、の順番が正しい。ところが現実には、出さないで曲がっても事故にならない日が続くことがある。そうやって「出さなくても大丈夫だった」が体に染み込む。
米国の道路交通の実走行データ分析では、車線変更時の合図(ターンシグナル)使用率が左で約50%、右で約36%にとどまるという結果が出ています。つまり、意外と多くの人が“合図なし”の成功体験を積みがちなのです。
“ズレ”が日常になる瞬間
社会学者ダイアン・ヴォーンは、組織の中で本来は逸脱だった行為が、繰り返されるうちに普通のこととして受け入れられてしまう現象を「逸脱の常態化(Normalization of Deviance)」と名づけました。NASAのチャレンジャー事故でも、危険サインが“いつものこと”として処理され、悲劇につながったと分析されます。要は、99回の無事が、100回目の油断を育ててしまう。
企業でも起きる“イカロスの逆説”
経営の世界には「イカロスの逆説」という言葉があります。強みが強すぎるがゆえに、その成功の論理にしがみつき、やがて転落してしまう。90年代から研究されている古典的な指摘ですが、要は勝ちパターンが視野狭窄に変わる、という話です。
あなたの周りにもいませんか。人脈や“パイプ”の成功体験に引っぱられて、肝心のプロダクト磨きを後回しにする経営者。短期では数字が立つ。けれど、長期では顧客価値という土台が痩せていく。成功の熱で翼の蝋がやわらかくなっているのに、海風の冷たさをもう感じなくなる。
安全が“攻め”を呼ぶこともある
安全策がむしろ大胆さを増幅させ、リスク行動が増えることがある──これは「ペルツマン効果」と呼ばれます。研究間で見解は割れるものの、「守りの仕組み」が行動を緩ませる可能性自体は、さまざまな分野で観察されています。成功体験が招く油断のメカニズムとして、頭の片隅に置いておく価値はあります。
今日からの運転(=経営)を少しだけ賢くするメモ
1. “当たり前”を定期的に疑う
「うちの勝ち筋」は仮説にすぎません。四半期に一度、明文化して“反証会議”を。名前のない習慣ほど危ないから。
2. 近頃の“無事故”を成果と誤認しない
近似失敗(ニアミス)を記録・共有する。事故が起きなかったのは、運が良かっただけかもしれない。
3. 人脈の熱量と製品の健全性を分けて測る
「紹介で売れた」を製品価値と混同しない。プロダクト指標(継続率・NPS・解約理由)を淡々と見る。
4. 小さく、頻繁に、検証する
マイナーチェンジを短いサイクルで回す。成功の論理に縛られないための、意図的な“ほぐし”です。
ちょうど1本の水を飲み干すころ、僕はウィンカーのことを考えます。合図は、道に出すものでもあり、心に出すものでもある。
「いま曲がるよ」と、まず自分に知らせる。
99回の平穏に油断せず、100回目もちゃんと出す。
経営もたぶん、そういう静かな所作からできているのだと思います。